大乗起信論メモ4

<「取著の転回」の21とヨーガスートラに関して>
21に「このように識のを証知して、このように識の集起を証知して、このように識の滅を証知して、このように識の滅に向かう道を証知して、識を厭離し、離欲し、滅し、取著なく、解脱するならば、よく解脱しているのです。よく解脱している者たちであるならば、独存しています。独存している者であるならば、かれらに、仮設するための転回(輪廻)はありません。」とあります。

上記の識は19で六つの識別にかんするあつまり(カーヤ)のことと説明されています。

つまり、ここで述べられている識の滅は識別の滅でしょう。ということで、ヨーガスートラには「識と独存」関連で次のような句があります。


3.55 サットヴァ(全八識)プルシャヨーホ(唯識)シュッディ(浄化)サーミェー(同じ時)カイヴァリヤム(独存)

上記の内容は「取著の転回」の内容に近づこうとしていますね。

プルシャは唯識と訳せます。

そして、その少し前(3.52)には「智」に関しては、次のような句があります。


3.52 瞬間とその相続とにサムヤマすると識別から生じる智が現れる。

上記の智は(心)生滅の切り替わりの瞬間識別(目覚め)による唯識、真如の覚知のことでしょう。これは「起信論」にも説かれている「覚(真如)」のことです。

しかし、ブッダの説く覚り(本覚)は「唯識、真如の用(働き)」である智です。ここがヨーガスートラの「智」がブッダの覚りに追いついていないところです。

真如の覚知後と「本覚」の働きが目覚めた後の「静まり」の違いを知ればなおのこと、よくわかるようになります。

瞬間識別があれば、無我、無住のありかたを知り、用(働き、定ある至福)を知れば、無相、ブッダのやさしさがわかるようになるのでは。