仏国土
先日(6月)、「心生滅」を次のように図式化(A)して、思惟していました。
(空間なし) (空間あり)
【滅】・・・・・・・【瞬間】・・・・・・【生】
(無) ↓ (有)
↓
↓
空間あり
我なし
名称なし
次の日、ウェブページに、次のような書き込みがありました。
「また、アーナンダよ、かの仏国土には、火とか、月とか、太陽とか、遊星とか、星宿とか、星群とか、暗黒とか、闇とかいうような名称をつけて表現することも全くない。また、夜とか昼とかいう名称をつけて表現することも全くない。ただし如来がそのような名称をつけて表現される場合は別である。家屋を所有するという思いもないのだ。(無量寿経22章)」と。
ああこれだと思いました。
上記図(A)では、【生(有)】においては、月とか、太陽とか、遊星とか、星宿とか、星群とか、夜とか昼とか、家屋とかの名称があるのですが、有でもなく無でもなく、滅でもなく生でもない【瞬間】においては、空間はありますが、それらの名称がありません。
「無量寿経」を書き記したお方は、無の「滅」と有の「生」の中の道である【瞬間】を利用して、仏国土に訪れているかもしれない。
どういうことかといえば、【瞬間】を覚知できれば、それに乗じて、空間を一瞬で移動できます。
遥か彼方の宇宙空間の「国土」にも移動できます。そこには誰のものでもない「仏がおられる家屋」があり、その「家屋」に招かれれば「夜空」に見えるはずの「星群」が「昼間」にすぐ其処に見え、ただ、そこでは「国土」「家屋」「星群」「夜とか昼」とかいう名称がありません。「仏様」も「招かれた人」も平等です。
他にも、様々な楽しき歓喜があるのですが、これらは真如からの泡だま宇宙に映ることなのかもしれません。
「かりに私が仏になった時に、もし私が建立した国に住んでいるものが、どんなところにも自由に飛んでゆくことができる力を、少なくとも百千億那由他ほど数多くの仏の国ぐにを一瞬のうちに飛び超えることができるほどの力を、得られなかったとしたならば、私は自分だけが仏になるようなことはしません。(四十八の誓願九)」
易行である念仏は「南無阿弥陀仏」という言葉を使いますが、「信」において精励、逆(外)薫し、真如の「薫習作用」を呼び起こそうとします。
そして歓喜とともにイメージの贈り物があります。