イメージ(識)の世界34


cit に関する文章をネットで見つけて、感嘆した。

avidyA と vidyA、citta と cit、記憶、智慧、無我などに関して、わかりやすく端的にかつ完璧に説明している。

以前にもこの文章を読んでいたかもしれないが、印象(記憶)に残らなかった。
たぶん、そのときワタシの洞察がそこまで進んでいなくて、頭だけの理解だったのでしょう。

この文章にふれて、「識」に関して仏典を確認したくなり、先日購入したパーリ仏典を調べてみると、次のように書かれている。

如来にはその識が、断たれ、根絶され、根幹を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものとなっています。
ヴァッチャよ、如来は、識という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入し難く、あたかも大海のようなものです。(マッジマニカーヤ)


この仏典の説明に?となりませんか。

「識」そのものが根絶されたら、如来が生きている間はどのように事物を認識するのだろうか。

書籍には「yena vinJJANena」と註されてます。

手元にパーリ辞書がないのですが、たぶん、ここの識は識別作用のことだろうね。

識別作用であるなら、?とはならない。

しかし、citta とviJJana の違いをよく理解しているなら、「識」ととらえてもOKかな。

イメージ(抽象化)せずに見ることも可能だからね。(4/23)