わが修行僧


・しかし向上につとめた人は『わたしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。

・しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は快適なのである。

・アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、誰でも学ぼうと望む人々は。(大パリニッバーナ経2-26)


上記の内容から、ブッダは集会等を主催したりはしないだろうということと、向上につとめた修行者は他の誰かの集会等には出席しないだろうということが読み取れる。

向上につとめた修行者は、道の歩みにおいて他の誰かにたよるようなことをせず、自らダルマを明らめるであろう、そしてそのような修行者はわが弟子であるとブッダは述べているのでしょう。


P.S.
ただ、清らかな修行者の集まり(サンガ)であれば、定期的に集まってダルマについて語り合うことは幸せなことではないかと思います。(6/30)