イメージ(識)の世界22

<私における「到来」は、早暁の半醒時に、ありありと感じた「被包摂」の体験だった。>


熟睡時からの目覚めに一瞬のチャンスがある。
しかし、これは(ごく普段の自分の身近なる)因縁があってのこと。
(ごく普段の自分の身近なる)因縁がなければ、ふつうの目覚めになってしまいます。<同時に覚醒を通路としてやって来たその奥にある深い慈悲だった。>


静かな至福という表現より、深い慈悲という表現の方がより近い言語表現です。<人間の心は、そのものがやって来てとまる「とまり木」であり、この世は絶対者が降り立つテラスだと思った。>


言葉使いが巧みです。<私の不全感・自己欠損感覚は「到来」を迎えても解消しなかった。いや、永遠なるものに包まれたことによって、それらの感覚は一層明確になったといった方がよかった。「至福経験」との差異はそこにある。あの時には、内面の暗い部分が一挙に決潰してなくなってしまった。>


そう、内面の暗い部分がより明確になる。<救済は彼岸から来たのであり、沈んで行く重みを支える浮力は外から投入されたのだ。>


ワタシではない、彼岸から来たのであるというのが、ありありと判る。<30代で味わった歓喜はまさしく私自身の歓喜であって、だから私はもう死んでもいいと思ったのである。しかし、50代でのそれは、爆発し奔出する歓喜はなく、感じたのは底の深い感謝の気持だった。>


「深い感謝の気持」というのは、もちろん「深い慈悲」のことです。<この確信を演繹して行けば、><罪ある身だから許される><償いは完了している。故に償うべきものを多く持つものほど、大きな恵与を受けている><善人なほもて往生す、いわんや悪人をや><などの宗教的信条に発展するに違いない。>


しかし、この「深い慈悲」の経験だけでOKとすることはできない。と思う。。。<俗な言い方をすれば、救済のよろこびとは何も気にしなくてもいいことが明らかになった時に、・・・・><到来したのは、完全に無私なるものであり、永遠に母なるものであり・・・・>


無私であり、永遠と感じるが、「何も気にしなくてもいい」と判るまでが、なかなか難しい。(3/29)