「心」に関して「中山書房仏書林のダンマパダ」から引用させていただきます。<引用開始>

●(心に関するすべての)法は、心が先立ち、心が最上の(主)であり、心より成る。
汚れた心で話したり、行ったり、(考えたり)すれば、荷車をひく(牛の)足を追う車輪の如く、
苦しみ、その人についてくる。(1)

MqnopubbaGgamA dhammA manosetthA manomayA
ManasA ce padutthena bhAsati vA karoti vA
Tato naM dukkhamanveti cakkaMva vahato padaM.<註1>
「心に関するすべての法は、心が先立ち(ManopubbaGgamA dhammA): 心とは、所演を考えるから心であり、
所縁を知るという本質がある。心に関する語として心(citta : 考える)・意(mano : 思う)・識(vinJJANa : 分ち知る)などがある。
五蘊(色・受・想・行・識)の集まりである私たちの身体の中で、心に関するものは受・想・行・識である。
仏教では、心は単独に存在するのではなく、その属性によって感知認識される。即ち、その中心的なものは識であり、
心の認識主体(心法=識)とその属性(心所法=受・想・行)からなると説く。
パーリ上座部仏教では、89心(あるいは121心)と52心所に分類して『心』について説いている。
ここで対象となるのは一瞬一瞬生滅変化する心である。
目に見えない宇宙の不思議な力・霊魂・一切衆生の内奥にあると願う自性清浄心(sabhAva-parisuddha-citta)・仏性などは対象外である。」<引用終わり>(5/18)