四句分別02

>  そこは是非、以下『極楽誓願註』の解説「浄土と縁起・仮設・仏性」をお読みください。
>  http://kishin-syobo.com/index.php?%E4%BB%8F%E6%95%99%E4%B8%80%E8%88%AC
> 教える時は言い習わしに依るから x と仮設すること、「xでも非xでもない」中道も含め四句分別を用いて対機説法します。
>  戯論寂滅した勝義を示す時は、四句分別が成り立たない戯論寂滅を示します。
>  それを簡潔に説いたつもりです。

>  即非の論理と誤解されてきた、『金剛般若経』の説などもアーガマの四句分別、十/十四/十六無記に添って矛盾なく説明したつもりです。(中沢氏)


「xでも非xでもない」ところというのは、非想非非想処のところでもあるので、
それは四句分別と相容れますが、それが中道であるというのはどうも合点がいきません。

四句分別が成り立たないところへ至る道が中道で、
それが釈尊によって説かれた行道であるというのなら納得できますね。(3/3)

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> > 「xでも非xでもない」ところというのは、非想非非想処のところでもあるので、
> > それは四句分別と相容れますが、それが中道であるというのはどうも合点がいきません。



>  ここは難しいところですが、非想非非想処も中道も論理形式、表現形式としては「xでも非xでもない」ですから
>  もちろん、内容は非想非非想処「xでも非xでもない」境地こそ真実と掴み、中道は戯論寂滅への導きとしての教えである点が違うところです。


> > 四句分別が成り立たないところへ至る道が中道で、
> > それが釈尊によって説かれた行道であるというのなら納得できますね。


>  道というなら、教えであり、言葉による教えであるなら論理形式がありますから。
>  教えと、戯論寂滅の真如を適切に分けて説いているのが『中論』18.6~9 と思われます。

>  興味あれば『極楽誓願註』の解説部分を立ち読みしてください。
>  最初の18頁で、この点に関しては明解だと思います。(中沢氏)


ウッダカ・ラーマブッタ仙の非想非非想処は釈尊が覚りではないとしたところですよね。
「Xでも非Xでもない」ところもそのままでは覚りではないと思います。
上記のところは四句分別で表現できますが、それを超越した境地は四句分別では分かりやすく言い表すことは難しいでしょう。
釈尊が解答する「苦の滅尽の境地」などとシンプルに表現した方がいいのにと思います。

また真如は「苦の滅尽の境地」ではなく、心解脱時に現れうる菩提心です。
あえてXを仮説するならば、同時にあらざるXと非Xが同時にあるという瞬間に表出し、
それはバラモンのいう「真我(アートマン)」ではないでしょうか。

そして寂滅の境地は釈尊が解答されている「行道」の「行」つまりサンカーラが滅した境地だと思いますね。

上記は知りえたことを、ただありのままに書いているだけで、反論しようというような意図はございません。

「極楽誓願註」のご紹介、ありがとうございました。(3/5)