四句分別

Wikipediaで論理学の一形式「四句分別」(レンマ)を調べてみました。

初期仏教は縁起主義に立ち、四句分別を排していて、沙門果経でサンジャヤの四句分別を批判していると書かれてあります。

どうも「毒矢の喩え」のところなどでも四句分別を排するところがあるらしいので手元の書籍を調べてみました。<パーリ仏典中部63小マールキヤ経>

「タターガタは死後存在する」ということは私(釈尊)によって解答されていません。
「タターガタは死後存在しない」ということは私によって解答されていません。
「タターガタは死後存在し、また存在しない」ということは私によって解答されていません。「タターガタは死後存在しないし、また存在しないのでもない」ということは私によって解答されていません。

それでは、マールキヤプッタよ、なぜ、これが私によって解答されていないのか。
マールキヤプッタよ、これは利益を伴わず、初梵行のものでなく、厭離のためにならず、
離貪のためにならず、滅尽のためにならず、寂止のためにならず、勝智のためにならず、
正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならないからです。それゆえ、それは私によって解答されていないのです。


それでは、マールキヤプッタよ、何が私によって解答されているのか。
マールキヤプッタよ、

「これは苦である」ということが私によって解答されています。
「これは苦の生起である」ということが私によって解答されています。
「これは苦の滅尽である」ということが私によって解答されています。

「これは苦の滅尽にいたる行道である」ということが私によって解答されています。

とありますね。

でも、四句分別そのものが排されるべきということではありません。
四句分別はもちろん、学問としては有用でしょう。
ただ、苦の滅尽にいたる行道ではないように直感的に感じますね。(3/2)