大乗起信論メモ

(本覚が働きだす以前の)真如も至福として覚知できますが、この覚知後は、突如として唯識等がすんなり解るような変化が起ります。

「本覚」の働きとは、覚体が「全体的な用」であるということです。この(真如の)「全体性」を会得したなら、(唯識がすんなり解ったときのように、)「大乗起信論」がすんなり解るようになります。

「本覚」は「真如」ともいえるし、「覚」は「真如」の覚知であって、不覚の真相を把握しようとするところに、真如の全体性を会得するチャンスが生じる。

「起信論」においては心真如の「心」と法身の「身」は別ものではないとされ、法身を「空」というときそれは勝義の意味でのことでしょう。

「体」とか「心体」という用語がありますが、「覚者(仏)」という用語は勝義的には覚体ということに等しい。