大乗起信論メモ2

黄檗はこのように語っています。

「正覚若し現前せば、空の如く皆寂滅し、外に繊塵なく、内に識念無し」

内に識念無しとされていますが、「大乗起信論」の注釈書である釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)には、第十識(唯一心、清浄本覚)が説かれています。

真如が「第十識(清浄本覚)」かと問われれば、「自性清浄心」へ到達する「始覚」そして「本覚」の全体的「覚」であると説明すればいいのでしょうか。

「言葉」の使い方は難しいですね。しかし「本覚」の働きを知覚するには、この「言葉」、法界から現れる(た)「言葉」と前後に(自然に導かれる)「定」がキーポイントになります。

「空」の扱いが難しいのは、この「空」によって自己が瓦解したとき、真如が現れるのですが、ほぼこの真如は「始覚」であって「本覚」ではない。ここから、「空」を極めて本覚へ至るのは並大抵ではありません。