大乗起信論メモ3

論理的な「空」としての無自性から、実践的な「空」としての無所得(無執着)を得る過程で、空(無我)を因縁があって知ることもさながら、「無所得」を智慧が完成するにしたがって味得することの難しさです。そして「無けい碍」の空に至る智慧の完成は、さらに稀なことでしょう。

空の無所得とは智慧が生じ始めた段階といったところで、無けい碍の空に至る智慧の完成とは、本覚が働きだす仕組みを完璧に知っているということです。

この「本覚」の働き自体は、言葉の論理にのっとってのことではありません。長年解決できなかった大疑団が、功徳と因縁があって、内より解決され「本覚」が働きだすのです。

この因縁の妙、本覚が阿頼耶識に作用する様を言葉で論理的に表現することは不可能です。それゆえ、パーリ仏典にも自らの修行によって体得される涅槃の境地の説明がないのと同様に、無我(空)の実践も自ら体得することのゆえに、その説明がないのです。