イメージ(識)の世界17


ホ・オポノポノではでてくる感情、出会うものすべてをクリーニングしてゆく。
この方法は仏教の心の様態も、感受したあらゆるものを抽象化せずに観察するという方法に似ているといえば、似ている。

4つの言葉を使うことによって、感受したあとの反応(スキとかキライとか抽象化)をストップさせている。

「11 行捨智の生起(パオ・セヤドーのサマタ・ヴィパッサナー瞑想より)」のところの

●瞑想する心が穏やかにサンカーラの消滅に留ると・・・・
●三つの特徴(無常・苦・無我)のうち、より明確に観察できるものを優先すると、サンカ ーラ(行、形成作用)の識別をより上手に続けられるようになります。
●サンカ ーラに対して冷静で中立的になっていきます。
●この平静(捨)の段階に達 する智慧が、行捨智です。

上記も言葉は違うが、似ているといえば、似ている。

●行捨智 が平安の境地である涅槃を、まさに平安であると見る とき、すべてのサンカーラを離れて、涅槃に向かいます。涅槃を平安と見ないときは、心 (行捨智)はサンカーラを対象にとって何度も生じます。

上記もホ・オポノポノ的に理解できないことはない。

では、アドヴァイタの「おなじくフリダヤにある「真実在Self」という主体にとどまれば」というのはどういうことなんだろう?

モリーもフリダヤにあるとしているのだから、要するにメモリーを再生せずに、つまり、サンカーラを離れて涅槃の境地にとどまればということなんでしょう。

この「Aloha」は面白いね、様々な気づきを与えてくれます。(3/26)