イメージ(識)の世界18


> メモリーもフリダヤにあるとしているのだから


ということは、目覚めているとき(普段時)、フリダヤの扉は開かれているということですね。そうでないと、メモリーは再生されない。

ということは衆生でも、狭き門の扉が開いているということになります。ということは衆生と解脱者との違いは、メモリーが再生されているか、メモリーが再生されていないかの違いになるということになる。

アドヴァイタではメモリーが再生されないためには、self(小文字のs、自我)が破れて無我になったとき、Self(大文字のS、真我)の光明、至福が現れるとされている。

ホ・オポノポノでは

> 「ひとり」はね、決して悲しくも、退屈でもないんだよ。あなたの中で三つの家族が手を取り合っているとき、あなたははじめて「ひとり」を体験できる。
> でも、それはあなたが頭で知っている「ひとりぼっちのひとり」のことではないんだ。


というように、アウマクア(超意識/父)を含む三つの家族が手をとりあっているとき「ひとり」を体験できるとしている。この「ひとり」はSelf(真の私、無我、光明)ということだろう。

家族がバラバラになっているときは、メモリーが再生されているself(自我)のある「ひとり(無明の私)」ということなんだろうね。(3/27)