イメージ(識)の世界19


> ということは衆生と解脱者との違いは、メモリーが再生されているか、メモリーが再生されていないかの違いになるということになる。

とは書いたものの、

世界の消滅を成し遂げたお方であっても、その後の生活はやはり、その世界で暮らしている。
世界があるということは、解脱者でもメモリーが再生されていることにならないか?

であるならば、メモリーを消すのではなく、解脱者はメモリーから離れているということだろう。
「行捨智の生起 (パオ・セヤドーのサマタ・ヴィパッサナー瞑想より)」にも、

「すべてのサンカーラを離れて、涅槃に向かいます。」とある。

ホ・オポノポノにも、

「あなたに記憶を手放すチャンスを与えに来てくれてるんだということに、感謝できるようになるよ。」
「記憶は悪者ではない。記憶は悪ではないんだよ。記憶がわたしたちを支えてきてくれたことは、いくらだってあるはずだ。」
「記憶を還るべき場所に還してあげることができるのは、唯一、表面意識である自分だけなんだよ。」とある。

アドヴァイタにおいても、無明(avidyA)は虚出没であるとされている。
わかりやすくいうと、主体にとどまるなら客体(無明)は存在しなくなるということです。

「Aloha」をたたき台にして、いろいろ考察していたら、
在家でもいけるんじゃないかなと確信のようなものがでてきた。

ミャンマーやタイにいって、アーナパーナに全力投球しなくても、いけるんじゃないか。

モリーから離れて、涅槃に向かうということなんだから。(3/27)

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上記を書いて、すぐヒラメキがきたんだけれど、

モリーでも、全体のメモリーと個人のメモリーがあるとしたら、
解脱者は全体のメモリー(共通のメモリー)はあるが、個人のメモリーから離れている。または、
個人のメモリー(が力を持つことを)を消去していると解釈できないことはないですね。

自我が破れて、無我になったとき、個人のメモリーがはずされるというふうになるのでは。

いや、そうゆうふうに納得したいな。(3/27)