イメージ(識)の世界20
イメージ(識)の世界シリーズは3月から4月にかけて書いたもので、まだ続きがあるのですが、今眺めてみると、特にメモリー再生に関してのアドヴァイタの解説を仏教にあてはめようとしているところに無理が生じている。
3/29の書き込みにもそのへんのところに気づいているようですが、メモリーの再生と「扉」の開閉の関係の洞察が足りないように思う。しかしそのへんを今直してしまうと、前後の繋がりがおかしくなってしまうので、とりあえずそのままコピー&ペーストしてこのシリーズを続けてみます。
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<3/29の文章>
> ということは衆生でも、狭き門の扉が開いているということになります。ということは衆生と解脱者との違いは、メモリーが再生されているか、メモリーが再生されていないかの違いになるということになる。
勢いでいろいろ書きましたが、書いてるなかには間違いも多々あるかもしれない。
上記なんかも、
「ということは衆生でも、狭き門の扉が開いているということになります。」を消去し、
「ということは衆生と解脱者との違いは、メモリーが再生されているか、メモリーが再生されていないかの違いになるということになる。」にした方が適切。
「扉」という言葉は、象徴的な喩えなんですが、
フリダヤの扉は熟眠の開閉の扉で、熟眠のとき、目覚めのときどきで開閉するとされていて、狭き門の扉とフリダヤの扉は違うと思う。
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※「狭き門の扉とフリダヤの扉は違うと思う。」と書いてしまったのは、「扉」の洞察がたりないからでしょうね。
扉の開閉というイメージを止めて、扉をスイッチとしてイメージする方がより適切でしょう。
つまり、目覚めているときスイッチがONになり、メモリーが再生されているとイメージすれば、論理的にも文章がより適切になり、
「狭き門の扉とフリダヤの扉は違うと思う。」は必要のない消去すべき書き込みということになります。