イメージ(識)の世界26


「到来」を経験した者は、自分のサンカーラ(メモリー、ヴァーサナー)がどこに記録されているかを知っているし、覚醒を通路としてやって来る「深い慈悲」のことも知っている。また通路をふさぐものが何であるかも知っている。

そして「到来」の次の段階を経験した者は、「静けさそのもの」がどういう境地であるかを知ることになる。

最後に、

「すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地」を知ることになる。

この最後を知るものはブッダの境地と同じところを知ったということだと思う。

この境地を別のコトバで表現したお方がお2人いますが、これの1つ手前の境地を知っているのは、エックハルト・トールだと思う。

ネットからトールの境地をテキストに記録してありますので、その一部を紹介させていただきましょう。

●突然、すべてが生命に満ち、平和に満ちたものとなりました。
その理由は、わかりませんでした。
この状態は継続し、すべての体験と知覚の背景に内なる平和がありました。
それは思考の背景にさえ存在し、それ以降、消え去ることはありませんでした。
その平和について、しばらくは言葉に表せずにいました。

その後、初めて仏教やキリスト教、現代の霊的な教えを紐解くうちに、何世紀にもわたる文化的な追加、誤った理解の底に隠れた、仏教やキリスト教の真理が私にはすぐ理解出来ました。
それら原初の教えが示していた真理です。
それらの教えによって、逆に、私に起きたことを理解することが出来ました。
例えば、新約のイエスの言葉、「すべての理解を超えた平安」という表現を読んだ時、「これが私が感じたことだ! 」 と共鳴しました。
それは、理解不可能な平安でした。
彼も同じ体験をしたのでしょう。
外側の世界に起因しない平和が、突然表出したのです。
何かすてきな出来事が起きたわけでもなく、外側の原因によらない平和なのです。

●あの夜の出来事以来、私の思考は8割減少していたのです。
確かに、あまりものを思わなくなりました。
それで、あのような平安があったわけです。

ほとんどの人が、絶えず強制的な思考を強いられ、そのほとんどは無駄なものです。
私が「メンタルノイズ」と呼んでいる、その思考に終焉が来たのでした。
もちろん、必要な時は考えることが出来ますが、それ以外は、巨大な無思考が広がっていました。
そして、思考を挟んだ長い無思考の間には、すばらしい平安が存在しました。
内なる平和は、私が不安を抱えている時から、もともとそこにあったのだ。
ただ、不安と過剰な頭の活動がそれを覆っていたのだと、その時知りました。
これが、徐々に、私の霊的教えに発展しました。
外側に求めているものは、もともと内側にある、というのが私の教えです。(4/8)