心04
> (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
ということは、無明が無くなったお方は、諸々の作りだされたものを苦しみであると見、そこから離れようとするだろう。
そして、すがたを好みで分け隔てて見るということがなくなる。
※つぎに、「パーリ仏典入門」の梵網経に目をとおしてみよう。
常住論のところには次のように書かれてあります。
『この四種はいずれも、自体である蘊(色・受・想・行・識)のいずれかを「我(アートマン)である」と、また「世界である」と捉え、その常住・不死・常恒を説くものである。』
自洲をアートマンと見なしたら、この定義でのアートマンは常住でなくなるか、常住とするなら六十二見により邪見とされてしまいます。
しかし、アドヴァイタ(ラマナ・マハルシなどのアドヴァイタ)でいう真我(アートマン)は「色・受・想・行・識」のいずれでもないので、この常住論の範疇には入りませんね。
当時はバラモンによって「我」と「世界」に関して様々なことが主張されていたようです。
また、このようにも説明されています。
『それではこの六十二見の十論を、仏はどのような智慧・法をもって捉え、放たれたのであろうか。
各論の説明の終わりはすべて次のようにまとめられる
●・・・・・・
如来は、それを知り、またそれよりすぐれたものを知ります。しかもその知るところに執着しません。
執着しないから、ただひとり自ら、そこに寂滅が見られます。
比丘たちよ、如来はもろもろの感受の、生起と消滅と、楽味と危難と出離を如実に知って、執着なく解脱したのです。』(6/9)